すべてが可能です

全ての事は可能である」と言う言葉は、手品師やワールドクラスの弁士の言葉ではありません。この言葉は、二千年前の古代イスラエルの、荒れ果てたホコリっぽい路上のある放浪ホームレスの言葉です。どうして、そんな無能な者から、そのようなすばらしい事を言えたのか?何が、日雇いの大工にその言葉を忘れさせずにいたのでしょうか?

おそらく同じ様なことを、聞いたことがあるでしょう。ほとんどの人が感じたことがあるように、自分の問題が希望を持った考えや詩的で感傷的な言葉を超越していることを。祈りを信じなさいと言う人々が、祈りにより答えを見つける事が出来たと言うようなものでしょう。宗教が崇高な理想を与えてくれることと、現実の問題に対処することは別問題で、実際にはぼやけた感傷を与えるに過ぎないと言えるでしょうか?
このごろつきの「先生」は、反宗教的な発言で抹殺され、敬虔な宗教人から憎まれていました。彼は、「昨今、謎めいたものでいっぱいである」と専門家に主張した。彼が一般の犯罪者のように処刑されたとするならば、彼の主張に一理はあるでしょうか?ユダヤ教、ムスリム、ヒンダス教は、イエスの主張を全て否定します。「彼は我を見たまう父を見た」とイエスは申しました。(ヨハネ14—9 10—30)
最近よく言われているような、偽善的で、お金のかかる教会の牧師にうんざりした事はありませんか?(本当の教会とは、出向いて行く場所の事では無く、何処にいても、イエスと共に生きる事と思います。)多くの、空虚な人生をおくっていることを是認するとは、どういう事か、また、本当の神の体験などあるのか、を考えることでしょう。もしイエスの神秘を理解しようと思うのであれば、他の人々から学ぶことは出来ないでしょう。イエスは申しています「人々に不可能でも神には可能です。」(ルカス18-27)
今の恐怖や苦痛は何でしょうか?そのような不安を持っていることを誰か知っていますか?また、心底、あなたを心配している人はいますか?正直に言って、「心からの愛情を感じたことがあるでしょうか?」まだ間に合います。神の約束として、いつ何時でも、深い愛情を持って、あなたのそばにいます。そして、「不可能なことなど無いでしょう」とおっしゃっています。(マタイ17-20)イエスさまは、「何事も神の加護で可能となるでしょう」と宣言しています。(マルコ 10-27)それは、お守りや偶像で無く、道徳的な生活態度でも無く、説教や、多数の同士のことでもありません。イエスさまのお言葉で、「神と共に、万事が可能となる」(マタイ19-26)
本題として、まず、神は存在するのか?次に、神とはだれなのか?(ヘブライ11-1-6)個人的に神と親しく知り合えるのか?彼は人々の教示や儀式を必要としているのか?もちろん、いろいろな思索は可能です。“神は木に化けている、神は他の星からやってきた、南米に在住している、”などなど。これは、そのような疑問解決の為に書かれたものです。もちろん、実態のあるものではありません。精神的でミステリアスなもので、信仰というものです。ほんの些細なことです。イエスは「全てのことは可能であると信じます」と言っています。(マルコ9-
人生はたやすいものではありません。憂鬱、自殺、離婚などは、退屈な遊びごとではありません。人生は短く、砂時計はあっという間に過ぎてしまいます。神があなたの身体を創造した理由があります。時に、あなたに一番近しい人でさえ、あなたを傷つけることがあるでしょう。しかし、神は絶対にそのようなことはしません。
この地球上でたかだか70年の人生です。時を無駄にすることはできません。さあ、心を開きましょう。あなたの人生は、アルバムに例えるなら、ほんの数ページにすぎないでしょう。あなたの生死について、ほんの少数か、まったく誰にも影響することは無いでしょう。ゆりかごから墓場まで、あっという間に過ぎ去るでしょう。神の創造した、星、海、それと、驚異的と言える人間。彼があなた方を創造した理由は、この地球上で、働いてお金を稼ぐ為ではないのです。
共よ聞いてください。神は構造物ではありません。科学的に学べるものでもありません。生きた人であります。彼に近づくためには、極限の落ち着いた心が求められています。(マタイ11-25ff)単純な響きですが、この喧騒な世では、そのような境地へは、神より示された人しか導けないのです。(ヨハネ6-44,37)霧のような人生です。立ち止り、この機会をとらえなさい。ヨハネの聖歌を熟慮することから始めなさい。イエスキリストの一語一語を良く考えてみましょう。神聖なる神は、あなたたちへの情愛を第一としています。彼はあなたたちへ彼自身を打ち明けたいと思っています。神の子であるイエスキリストを通して、それらのことを実行することができます。
神の知性と神秘が、この低俗なこの地球上へくることは、自信など完全に見失うことでしょう。神を知りたいのならば、どのようにして全てが可能となるか知りたいならば、最上の謙虚さが必要です。神は誇りをもって、想像しえない教示をするでしょう。それを見出す為には、唯一つ、彼があなたたちへ与えたいと切望するもの、「聖書」です。(マタイ11-25)

神の慈愛を確認するために、特別なことなど必要ありません。それらは、新・旧聖書という信頼おける書物となっています。無効とされた史実については、学者達により認められています。それに打ち明けられていることは、われわれがまだ罪人でなかったとき、父なる神は、唯一の息子を、この世と人々を罪から救う為、送り出したのです。(ローマ書5-8)イエスは我々の不可能を可能にしました、よって、我々には不可能が存在するのです。キリストのお告げは、過信から遠ざけるでしょう。神はあなたを深く愛しています、神は、罪深い障害からあなたを遠ざける為に、イエスを導きました。イエスが十字架に架けられたことを信じなさい。あなたの探し求めている幸福、またその意味を見つけることを、罪は邪魔をするでしょう。罪は、キリストの神聖なる身体とともに十字架にかけられています。(コロサイ書2-14)
イエスが彼の父の死により存在することは、我々の可能性への新たな道しるべとなることです。イエスの復活は永久の人生への始まりです。あなたの復活という、神の神秘的な計画は、あなたが参加できる宝物のようなものです。復活とは、生まれ変わりと言う事です。(ヨハネ第三章二、コリント5-17)これは再出発が準備されていることです。
正義とは最高なものです。無数の悲惨な被害者が切望するものは、正義に満ちた安らぎです。罪人は、罪に見合った罰を受ける事となります。それが真実であるならば、人の道理であり、神の道理でもあります。罪の本質は全ての人に存在するものです。生まれてくる事を選択する事はできません、しかし再生することを選択する事は可能です。
我々がイエスを十字架へ送ったのではなく、ローマ戦士のような罪人な心がそうしたのです。我々の道は邪悪ものです。神が創造した地獄とは、神の子が罪悪を殺すようなものです。聖書によると、永遠の火の池のようなところです。何故、慈愛深き神が、その様な所へ私たちをおくるのか?と人々は言います。しかし、イエスの流した鮮血の事を忘れていませんか。神の慈愛のおかげで、イエスをあなた方の元に届けてくれました。(ヨハネ3-16).